鉱山廃墟というものが各地にあることを知った、はじめは小串鉱山を知り、それらを知らべていくうちにいろいろな鉱山が各地にあることを知ったのだ、
そのうち最も興味を持ったのが、盛岡県の松尾鉱山跡である。
今回の旅は松尾鉱山を絡めての旅となった。
それではスタートである。
会社を終えた後、レンタカーを借りて東北道をひた走る、
いつも思うのだが、福島までが異様に長く感じる、深夜に走っているとさらにそのような感覚に陥るのだ。
まずは本題に行く前に少し寄り道をする。
松川地熱発電所である、
巨大建造物に対する畏怖、そして感動を感じることができる。
まさに「なんだ、これは?!」である。
横浜では、5月になるとめっきり春めいており、新緑の季節の始まりの時期である、
しかしここ東北ではまだ、まだ春になりきっていない。
当然ながら柵があり、部外者は先に進むことはできない、しかしもう少し近くに行くことができる。
さぁ、次の目的地へ!!
松川発電所からそれほど遠くない場所にそれはある、
今回の旅のメインでもある、松尾鉱山跡である。
車を走らせていると、一気に景色が広がり異様な光景が目に入る、
これが松尾鉱山・緑が丘団地跡である。
当然でながら、今では誰も住んではいない、すべて廃墟である。
そしてこの廃墟アパート群の圧倒的な存在感がすごい。
周りを見渡しても人の存在はなかった。
こんなところまでアパートの廃墟を見る来る人など、普通はいないのだ。
近づいてみる。
この松尾鉱山は、1969年まで岩手県岩手郡松尾村に存在した鉱山である。
主な鉱物は硫黄で、一時は東洋一の硫黄鉱山と言われていた。
最盛期では、従業員・家族を合わせて約1万5000人が住んでいたという、
学校・病院・スーパーなどがあり、標高1000mにあることから雲上の楽園と呼ばれていたらしい、
しかし栄枯盛衰、時代の流れ、需要の減少からその役目を終えたのだ。
廃墟に近づくには草木を分け入り、進んでいかなければならない。
コンクリートむきだしのそのままの建物である。
内部は壁がはがれ、通路には様々な残骸が散らばる、歩くと音がなり落ち着かない。
多くあるうちの一棟に入ったのだが、
どこかで人が歩き通路の残骸を踏む音が聞こえた、廃墟マニアか、僕と同じく興味本位で訪問した者が知らないが、最悪のことを想定して出ることを選択した、
なにせ、周りには人がいないのだ。
次に向かうは、 焼走り熔岩流(国指定特別天然記念物)の見学である。
岩手山(いわてさん)は二つの外輪山からなる標高2,038mの成層火山。
岩手山の北東の山腹に見られる熔岩流。
岩手山は歴史上過去5回ほど噴火をしており、この溶岩流は1719年に噴火した時にできたものである、噴出口から末端までの距離が3km、幅が1.5kmの規模である。
この黒く固まった溶岩流群の中では植物は育ちにくいそうだ。まさに死の大地。
車を走らせ盛岡市内へ、
盛岡城跡まで来ると、一気に春めいてくる。
灯篭が良い感じに映える。
公園として残っており、市民の憩いの場として親しまれているが、
城としては見どころは少ない。
花巻に移動する、
ここは宮沢賢治の小説の舞台である北上川のイギリス海岸というところである。
イギリス海岸と名付けたのはもちろん宮沢賢治である、
ではなぜ、川なのに海岸なのか、イギリスなのか、皆が疑問に思うところである。
イギリスのドーバー海峡の地質に関連するのだが・・・、北上川の川床の地質がイギリスの第三紀末の白亜紀層を連想されることから、イギリス海岸と名付けたのである。
宮沢賢治ならではの発想なのだろう。
車を少し走らせ、民話の里・遠野地区に向かう。
かっぱ淵である。
土淵町の常堅寺裏を流れる小川の淵にはカッパが多く住んでおり、人々を驚かしていたようである。
かっぱ淵より少し北上すると、そこにデンデラ野はある。
この不思議な名前、初めて聞いた人は何を想像するだろうか、僕はなにか不吉なものを感じた、単語・響きからは良いものとは想像できない。
道端に車を停める、駐車場は見当たらなかった、進んでくる人はいないのかもしれない。
5・6mの丘を登り、寂しい道をただ歩く。なんて悲しい雰囲気だ。
デンデラ野。
いわゆる姨捨山である、60才を迎えると親をデンデラ野に連れてくる。
集まった老人は日中は畑仕事を行い、老人だけの集落で余生を送るという、そしてここに来た老人は死んだ者として扱われるという。
飢饉、不作など、きびしい環境・時代の中、行われた風習である、当時に暮らしの困窮ぶりがわかる、
なんとも言えない気持ちになる場所である。
本日の宿泊地・宮古に向かう。
ホテルからの眺め、昔ながらの古い雰囲気の落ち着いた町である。
1日目・終了。
◆続けて2日目。
まずは、鵜の巣断崖に行く、
北三陸を代表する景勝地であり、北山崎と双璧をなす絶景地である。
名前の由来はウミウの巣が多くあるからである。
遊歩道を歩いていくと鵜の巣断崖の景勝地にでる。この分岐はあまり意味はない。
晴天で新緑の季節であれば、さぞかし素晴らしい光景を目にすることができたはずだ。
旅の行程がもう少しで半分に差し掛かる・・・
岩手の奥まで来ているので、横浜に帰ることを視野に行動をしていく、
次はさらに南下して南三陸に向かう。
松原大好きな僕としては、ここは外せない。
高田松原である。
松原といえば、北近畿の天橋立、佐賀県唐津の虹の松原、福井県敦賀の気比の松原、
静岡清水の美保の松原が有名である。
高田松原は、江戸時代の豪商により植栽されたことを発する、
6200本のクロマツが植えられ、防潮林の役割を果たし、白砂青松の景勝地でもある。
牡鹿半島に少し寄り道、半島ドライブを楽しむ。
しかし見どころはあまりなかった。
そして一気に松川浦(福島県相馬)まで南下する。
深夜に到着した為、松川浦で車中泊することにする。
早朝・・・
◆この段階で3日目に突入しております。
本日も曇りになる予感。
最終日は福島を中心に周ることにする。
白石城である。
別名:桝岡城と言い、白石市の中心部(益岡公園)にある平山城である。
仙台藩の南の要衝として、関ヶ原の戦い後は伊達家の重臣・片倉氏の居城となる。
白石城の周りの雰囲気が良いのだ。
さらに県越えをして、福島県・内陸に入る。
鶴ヶ城。
会津人の魂のシンボルである。
1384年に芦名直盛が築城して、1593年に蒲生氏郷が拡大した城である。
飯盛山に向かう、
飯盛山は白虎隊が自刃した舞台として有名である。
その北側にさざえ堂と呼ばれる六角形のお堂がある。
内部は3構造であり、らせん状の階段を登っていくと、いつのまにか下り坂になり、外にでる、一方通行の回廊であり、のぼり・くだりが交ることはない、世界でも珍しい建造物である。
最終目的地に米沢に向かう。
まずは上杉謙信公の像。
ここ米沢と言えば謙信公ではなく、鷹山公である。米沢市民の誇りである!!
そして、米沢の英雄・上杉鷹山公である。
上杉家は誰もが知っている謙信公を祖とする戦国の雄であるが、関ケ原の戦いで家督を継いだ景勝が西軍についた為、減封された、さらに5代目が家督を継いだ時にはさらに半分に減封され、藩財政は切迫していた。
その時に家督を継いだのが、10代目・上杉治憲、号は鷹山という。
藩の立て直しに力を入れ、自ら率先して質素倹約を行い、殖産産業を推進した。
養蚕による絹織物、笹野一刀彫、相良人形などの工芸品、鯉の養殖、そばの栽培などは鷹山の遺産である。
アメリカ大統領・ケネディは日本で最も尊敬する政治家として、上杉鷹山の名を挙げている。
これで2泊3日の東北3県の旅は終了、横浜に戻るだけである。
完。